
私はこの3月まで村長をし、4月から県議になったのだが、シンポジウムの講演話が来る前まではずっと村長をする気持ちでいた。56年に村長になった時の、上津平村の人口は1,600人位だったが、18名位ずつ減っていって今、1,345人位である。
農地は150haであとは山林が93%という山しかないところである。今日、「起業的な発想による村おこし」というテーマで話をするわけだが、それしかなかったからそれでやってきたという思いである。
知事が一村一品運動を提唱して2年後に村長になり、村の自慢できるものを出せ、なにかひとつやれということだったので一生懸命考え、8事業位やってきた。
まず、「家一棟分のふるさとの森づくり」というのを始めた。これは、一口60方円出すと30坪の家一棟分の丸太材30立方メートルもしくは丸材を売った金額をあげるというものであった。なんとかして都会の人を田舎に引き込みたい、60万円出してもらって繋がりをつくろうということで始めた。30坪で家を建てるとどうなるか、全部外は板壁でこんな家になるというモデルハウスを建てた。全国から4000件ほど問い合わせがあり、正式な申し込みは1300件あった。家一棟分という言い方が身近に感じられたのではないかと思うが、一口60万円で今現在も167名が会員になっている。
当時20年生の木だったので20年後の平成13年には、40〜45年生になって木が切れるという状況だったのだが、平成3年の台風の時、対象地が全部倒れてしまった。困ったな、会員の人にお叱りを受けるのでないか説明しなければということで説明会を開き、台風で倒れた実情を話した。お金を返してくれという話は全くなく、逆に、これから復興が大変ですねという声が大半であった。その時のことを想うと今でも目頭が熱くなり、ああやってよかったなという思いである。すぐ他の山はないかと捜したのだが、ほとんど倒れて対象地が無い。やむなく隣の中津江村に頼んで対象林を変え、現在そこを管理してやっている。
その事業を始めた時、毎日40通ぐらいの手紙が来、“地球から緑が無くなるのがさみしい”とか“ふるさとに山を持ちたい”とか書いてあるのを読んで感激した。最近、私は、都市と山村は切っても切れない、もう都市の人を無視して山村が生き残ろうなんていう時代は過ぎた、都市と田舎とがお互い共生するという時代を迎えたのではなかろうかと思っている。
家一棟分の反響がよかったものだから、今度はひとつログハウスをやろうということで丸太を芯カットして組み立て、これを村営でやった。初め3年くらいは赤字だった。議会からなんでこういう赤字を出すのだと説明を求められたりしたが、なんとか一生懸命やってきた。そろそろということで60年に郡の森林組合に経営を移譲し、平成3年には、全国一の売り上げをあげた。また、韓国の慶州に資材を持っていって“日田郡の青少年の家”ということで70坪くらいのログハウスを建て、毎年、日田郡の中学生が修学旅行でそこに泊まっている。
次に、体験できるものをということで奥日田フィシングパークという釣り場をつくった。これは、長野県で川を利用した釣り場があったので、それを参考にしてやった。川にたまりを造り、魚を入れ、釣り場をつくった。また、岩場にセメントを塗ってすべりやすくし川にすべり台をつくったのだが、これが結構人気がある。
家族違れでログハウスに泊まり2〜3回と来るような観光客が多く来るようになり、始めた当初は3千人位だったのが、今は8万人〜10万人位、夏になると来るという状況である。このフィシングパークは当初村営でやっていたのを4年前に第三セクターのグリーン商事に任せ、今、売上げは大体1億円あり2〜3千万円の黒字と聞いている。
それから、なんとしても木を利用して売り、後継者対策にもしようということで、トライウッドという第三セクターをつくった。平均年齢35歳、55名の従業員がいる。近くの林業関係の高校から卒業生が12名来ており、木の伐採搬出と木材加工を手がけている。身近に職場があるのに村内から人が来ないのがなんとも残念である。
できた翌年の平成3年の台風災害の際、倒木した木々で道がふさがれているという無線を受けてはサアーツと倒木をどかしていき、村民に大変喜ばれた。また、復旧もこの会社ができていたので県から補助金をもらい、機械を入れ、即対応できた。
それと当時、オートポリスという倒産した会社が、サーキットと車を所有していたので、“山林の復旧をしながらサーキットで思いっきり走りませんか”というキャチフレーズで全国的に呼びかけたら、98名の人がぜひともやりたいといって応募してきた。
この時思ったのが、今まで若い人が全然来なかったけれど呼びかけ方によっては人も来るなということである。若い人が仕事を終えてから車をとばし、そしてまた山で働く、けがもなく無事に済んでよかったなと思っている。現在この人達は各地方に散り、それぞれ頑張っている。
今、第三セクターのことをいろいろ言われているけれども、こういう山しかない所で山を守るといったら、こういう地に足のついた形でやれる第三セクターという形が必要であり、是非とも無くしてほしくないし、また、応分の対応をしてほしいと思っている。
それから、田舎に都会から若い女性が来ると村に住む若い人達の元気が出るので、“田舎すきすきクラブ”というのをつくろうと思い女性向きのミニコミ誌を使って募集したところ、若い女性がたくさん来た。福岡あたりから結構来て、毎年交流をやっているのだが、今年も20何名か来た。女性10人に対し男性3人というぐあいでかえって田舎の男性のほうが少ない。一緒に芋を植えたり、農作業をやったりしている。おかげさまでカップルも3組ほどできた。今までいろいろやってみてもなかなか人が来なかったのだが、やり方次第で人も来るので募集するならこういう方法もいいのではないかと思っている。
私は大体突飛なことぱかりやってきたのだが、山に海の魚を飼う“森のヒラメ”の事業をやった。新聞に載るやらマスコミに採り上げられるやらで最初はいい気持ちでワクワクしていたのだが、そのうち新聞には出たもののどうだろうかと一時は心配になったりもしたが、結構太ってきて、今300グラムくらいになった。これは陸上養殖をして結構太らせている例があるのを新聞で知り、じゃあうちの山でもいいかなと飛びついた。
初めは、山村振興の事業でやろうと思ったのだが、実例がないからだめだということなので県にお願いしてパイロット事業でやった。職員も山口県から経験のある浅川さんという人を呼び稚魚から大きくしてやっている。海水の関係、環境の関係から今後は、全国的にこういったやり方に多少とも移行していくのではなかろうかと思っている。
売れるかどうかはまだあまり匹数もいないし、4槽だけでは採算もとれない状況なのだが、現村長といろいろ話をしながら側面的にお手伝いしていきたい。まあ海の魚はおいしいし山で育つということも実証されたので、どんどん増産して経営が成り立つようにしたらいいと思うし、おそらくうまくいくのではないかと思う。
デザインも木の葉っぱに頭だけヒラメを描いたのをつくってもらった。
この看板があるところに森のヒラメがあるということで大分市、別府あたりでちらちらこういうのが出、人気が出て匹数が多くなれば福岡あたりにも出す。これがポスターになるんじゃないかと思っている。
いずれにしても村には何もないわけで、なんとか業を起こし一生懸命がんばってきた。人口もまだ減ってまだまだ厳しい山村であるが、また知恵を出しながら、ようやく山村にも人が来ようと都会の人も思うようになってきているので、今がチャンスだと思う。
県会議員になると、まず知事に話し、県職員に話し、知事に話して認められれば0.Kになるということで歯がゆい面があるが、山村の実態を訴えながら少しでも山村が気持ち的にも明るくなるようにやっていきたい。
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