基調講演
「老人力のひみつ」
芥川賞作家 赤瀬川 源平

 
 「老人力」という言葉が世に広まってしまいました。「老人力」は、路上観察学会という、クラブみたいな趣味の会の中からひょいと出てきた言葉なんです。その路上観察学会というのは、遊びの会なんですね。何かためになるわけじゃなく自分たちがそういうことを好きだからぶらぶら歩いてやっているということなんです。要するに、個人といいますか、人生寄りの言葉なんです。内側に向けての言葉といいますか、芸術とか文学とか、そういったものと似たようなことで、それが直接どうなるということではないんですけれども、人間の中を通ってめぐりめぐって世の中に何らかの力を及ぼすみたいな、「老人力」という言葉は、いわばそれなんですよね。
 余り難しくいろいろ考えることもないんですけれども、もともとは、ぼけたり物を忘れたりとか、だんだん人間の感覚がアバウトになってくる。僕は、もともとぼんやりした性格なので、仲間うちでは「ぼけ老人」とかなり早目に言われていたんですけれど、表向きは一応長老ということになっておりまして、それを10年ぐらいやっているうちにみんなも最初の僕ぐらいの歳になってきて、ぼけてきてこれはちょっとまずいなということになってきた。そこで何かおもしろい言葉はないかというんで、物を忘れるようになってきたということを「老人力がついてきた」というふうに言いかえようという、要するにシャレなんです。
 ですから、楽しいのですけれども、直接的に世の中の役に立つわけじゃなく、そもそもが趣味で始めていたんですが、結構僕ら以外でもおもしろがられて、いろいろな行政的なところから声がかかったりして、何か話をしろと言われたときにはちょっと戸惑っちゃいまして、「あらかじめこれは全然役には立たないことですから」というお断りをしているわけなんです。
 それは、感覚的に、言葉遊び、写真を見て言い合うという、感覚的なものです。
 「高齢者」という言葉は頭で考えた言葉ですよね。差し障りなく、広く使えるということで考えられた言葉なのでしょうが、言葉としての味というのは歴史がないということもありまして、特たおもしろくないのですよね。
 「老木」という言葉は昔から、古くから使われて味があったが、だんだん老人が敬われなくなってくる傾向、特に戦後のアメリカナイズされていく中で、若者的な力と言いますか、機能と経済中心の世の中になって、だんだん老人という言葉も余り大っぴらに言えないような雰囲気になってきたわけです。
 「老人力」を僕が書くことになって、それが結構受け入れられて、取材とかいろいろ始まってインタビューに来られたりして、僕自身も考えていなかったことが、いろいろその人と一緒に考えて、「なるほど、こういうこともそうか」といろいろ出てくるわけですよね。
 例えばインタビューで、「老人力とは何か」ということを説明するときに、この会のテーマになっている「田舎」ということも、老人という場所、位置でということでしたね。若者というのは、筋肉でもっていますが、老人は、当然ながら筋肉が衰えてくるけれども、衰えた良さというのが実はあるんじゃないかと考えるわけです。
 それから、感覚的に出てきた言葉ですから、論理で説明するというのは非常に難しいのですが、女性と老人力との関係はどうなのかという問をする人がいますが、老人力というものを、ぼけ味といった場合には、やはりおじいさんといいますか、お年寄り、60過ぎぐらいの人で、やはり男になっちゃうんですよね。
 本来的に、女性のお化粧と男性の身だしなみと言うのは違うわけですよね。
 極端に言うと世の中に対し武装しているというか、そういう点では女性の方が強いわけだから、ぼけるということに対してもなかなか武装解除ができない、ぼけるというのは一種武装解除ですから、その人のおもしろみが出てくるのがぼけ味みたいなことではないかと思います。一方、「にこにこ力」で何とかしようという、それで考えてみると、まてよ「老人力」というのは女性の「相づち力」というふうに考えると、むしろ女性に得意な分野かななんて思ってしまう。まわりのことを受け入れるといいますか、「受け入れる力」というところが「老人力」に重なってあるんじゃないかなと思うんですよね。それで考えると、やはり女性という存在はやはり受け入れるということの元祖だと思うんですよね。これは実際の体の構造から考えても、受け入れて出産して子供を産み出すということの原点ですから。ということを考えると「老人力」というのは原形が女性なんだなということに気がついて、また一段と自分でもおもしろかったですね。
 田舎と老人のことに戻りますが、田舎というのは、近代化と同時にだんだん下の方に見られる傾向がありますよね。だけど一方で、田舎暮らしということに憧れがあるわけです。都市の中でいろいろ締めつけられて、実際に脱サラして田舎に行って生活を築くということもちらほら、あったりして、やはり何か憧れがあるわけですよね。
 老人というのは人生の現役をだんだん離れていく期間でしょう。
 現役の世界からぽんと離れるというのは、相当なショックだろうと思うんです。
 現役の世界とは、ネットワークに組み込まれた歯車で、老人はそれから外れてくるということですね。そうなると歯車じゃなくて自分自身ですよね。仕事を離れてくると結局ど一んと出てくるのは自分の生活なんですよ。生活をいかに充実させるか、楽しくするか、おもしろく、うまくよく生きていくにはどうすればいいのか…別にどうすればいいか一々考えたりしないけれども、その方に自然にいくわけです。
 都市の中心のネットワークから、要するに若者時代からだんだん離れていって、家族の中でも、だんだんばかにされたりとか、そういうことが始まるわけで、ばかにされても何でもいいから自分がいかに充実していくか、外見よりも自分の中身が大切だということになってくる。その点ではやはり田舎というもののあり方と同じだと思うんですよね。「老人力」というのは言いかえれば「田舎力」といいますか、都市的に言うとひ弱さでもあるけれども、もう一つ田舎の方から言うと力強さ、楽しさ、気持ちよさというか、自由さみたいなものが実質的にあるわけですよね。
 ここで私たちの路上観察学会が取っているスライドを見て下さい。
【スライド】
僕は、もともとは絵描きで、前衛芸術みたいなことを1960年代の前後にいろいろやっていまして、いわゆる平面に描く風景、人物という絵からちょっと外れた作品、初めは旧来の絵の形式を壊すことに夢中で、壊したところで新しいものが出てくるという原理がありまして、そのことに夢中になって、原理だけでその時期に食いつぶしていました。その後まもなく人間が考えてつくることの限界を感じまして、作品をつくるということに幻滅して、何かもう後は見えちゃうみたいな、後はバリエーションでしかないと、つまらなくなった時期がありました。でもやはり新しいものを見たいということは本能的にあり、町を歩いていろいろなものを拾い、見て歩くということが始まったわけです。
 (スライド1)…入り口が閉ざされて建物の壁になり、使われなくなった四谷のある家のコンクリート階段
 その最初が、「トマソン」ということで、それを10年ぐらいやっているうちにほかの仲間とめぐり合って路上観察ということになったわけだす。
 トマソンとは何かと言いますと、80年のころジャイアンツの助っ人外人で来ていたゲーリー・トマソン選手というのがいまして、そのころはまだ日米の野球がそんなに交流していなかったですから、なかなか力がうまく合わなくて発揮できないということがよくあって、ゲーリー・トマソン選手も大リーガーのすごい選手だということで4番にいるんですけれども、バットはもちろんすごいスイングをするんですけれども、それがボールに当たらないということがありまして、スイングが機能しないわけですね。それで2年目はベンチにいるという、せっかくの大リーガーがベンチにいる姿というのが、四谷階段とかこの無用門というものに非常に似ており、そのお名前をお借りしようということで、以後は「トマソン」ということで呼ぶことになったんです。
 (スライド2)…倒れそうで倒れない老朽化した小屋
 これは僕が屋久島かどこか南の方の島に行ったときにふっと見て、やはり何か当然ごみですよね。車ではありませんし、荷台もないですから。けれども、ただここに捨ててあるごみとは違う雰囲気があるわけですね、気配といいますか。掃除もちゃんとこれをよけて掃除していまして、よく見ると雨漏りがしないようにとたんが置いて飛ばないように石が置いてありますよね。何だろうひょっとしてお茶室なのか、お茶室というのは、最初は立派な部屋からだんだん小屋風になっていくはず。これは珍しい文化だなと考えて見ているどだんだんよくなっていくんですね。何に使うのか、のら仕事、お茶の道具を置いておくのかもしれないけれども、実際に休憩するのかもしれない。
 (スライド3)…放置された自転車に絡まったツタ
 これは、僕1人で「植物ワイパー」と言っておもしろがっているんですけれども、ツタがこういうところに生えて、それで風にふかれてぶらんぶらんと台風なんかのときに。それで枯れたりして、跡だけが残るという、この場合はこれが長身だとすると、ここで何かちっちゃい排水の穴から生えているのがくるくる回ったらしくて秒針みたいになっているという。そういう植物ワイパーと称するものです。
 これはもう、僕らの世界では国宝級のものでして、本当にこれは俳句の世界といいますか「朝顔につるべ取られてもらい水」のあの世界で、こっちの場合はハンドルをとられているわけですけれども、全部取られちゃっていますよね、チェーンから何から。それで折からの紅葉で、この枯れぐあいとか。生け花も前衛でいろいろあったりするんですけれども、やはりどうしても人間の意思が変に出過ぎるとちょっとうっとうしくなるという面があるんですよね。強さが出るということもあるんですけれども、それがやはりこういう気持ちよさというのは、自然の力というのは別に植物の力というだけじゃなくて人間の無意識の、これをうっちゃっておく力といいますか、力ではないんですけれども、あえて見るとそれは力なわけで、そういうできてしまったものの強さといいますか、すごさといいますか、僕らにとってはもう国宝級。
 (スライドを終えて)
 「老人力」という言葉は、その言葉をひょいとつぶやいてしまった状況というのは、極端に言うと頭を外れた世界とでもいいますか、人間は頭がついているから外すわけにはいかないけれども、でも頭では考えられない思わぬものに気がついていく感覚といいますか、それはこここでは「老人力のひみつ」というふうになっていますけれども、僕は「老人力の勇気」みたいに言ったりもするんです。若者中心、筋肉中心の考え方からいうと、衰えていく力というようになると思うんですけれども、むしろ衰えることによって入ってくる力ですね。弾き返したものが自然に入ってきて、それを捕まえられるという、それは非常に地味だけれども、内面的には勇気の要ることだと思うわけなんですよね。
 言いたいことは、余りにも今の世の中は頭で考える論理優先といいますか、機能優先、経済優先といいますか、そういうことになり過ぎている。しかし、そうじゃないところの、そういう考え方の世界からちょっと押し退けられている、落としちゃっているものを見ないと、結局は人生何もなかったということで終ってしまう。
 本当の楽しみというのは、機能を離れて、お金を離れて、多少のお金というのは要りますので、お金を捨てるということは非常に難しいことですが、これができたら大変な哲人になれると思うんです。

〈講演内容は要約したものであり、文責は全国山村振興連盟事務局にある。〉

《前へ》