基調講演
         山村に生まれて
            直木賞作家 西木 正明


 私は、三方を山に囲まれ観光資源だとか名勝になるようなものが何もない東北地方の典型的な山村である西木村の出身です。昭和15年生まれなので日本の変貌を横目で見ながら大人になり、古い山村のかってのありようも見てきている。
 私の里に例をとって一応四季の話からすると、春は、ものすごく深い雪が融け地べたがぼつぼつ見えたころ、スコップを担ぎ雪の中に埋まっているノビルを掘りに行き、持って行った鍋にみそ、ニシンなどを入れ、子供達同志で料理をして食べるなべっこ遠足をやり春の到来を知る。
 4〜5月の田んぼを耕す時季になると、前年の稲を刈った切り株の一つを引っこ抜き、丸いアナができた所にフキの葉、スカンボ、塩、フキの葉を入れどんどん踏んでふみづけをつくるのだが、土の匂いなんかもしてなかなかおいしいのである。
 田植え時は、作業開始時刻になると軒下にぶら下がった厚い木の板を叩いて鳴らすバンチョウの音が響き、農作業に出る。休憩時間には、あぜにござを敷き車座になって、漬物をつまんでお茶を飲んだりたわいないうわさ話で盛り上がっている。
 その時季は、ゼンマイ、ワラビなども出る時季で子供達は山菜の取り方を教わる。炭焼きが始まり、川にサクラマスが上る夏になり、子供達は、ナマズ取りを口実に夜遊びをしたりする。夕方、馬を川の水で冷やしてあげる馬冷やしなんていう景色があったのも30年代半ばまでのことである。
 秋になると、農家の納屋からゴインゴインという足踏み式の脱穀機の音を目覚ましのように聞いて起き学校へ行く、この景色も30年代前半ばくらいまでのことである。
 取り入れの後は、秋田では祭りが沢山あるのだが、小さい祭り、大きい祭りそこら中祭りである。また、私どもの地方では、集落の中で回り持ちで当番になり家全体を宴会場にし、3日間ぐらいぶっ通しで食べて飲んだりした。
 昭和20〜30年代は、各戸でどぶろくをつくっており酒役人が見回りに来ると気をつけろと伝令が回ってきたりした。
 そんなこんなで秋が終わり、冬になるのだが、私は冬が一番好きだった。何が好きかというと冬の音、ひょうひょうという音が好きなのだ。聞いていると子供の笑い声や、泣き声や大勢の人ががやがやしやべっている音になったりする。小泉八雲が雪女を書いたのは、こういう音を聞いたからああいう発想になったのだと思ったりしたことがある。
 学生時代エスキモーの村でふた冬過ごしたが、ブリザードの音は故郷の吹雪の音と同じで感激したことを覚えている。
 雪がどんどん積もり、ぬからずに雪の上を歩ける固雪の時季になると、田んばに稲わらを山のように積み上げ火をつけ、その年の豊作を願う火ぶりかまくらをやるのだが、集落中でやるので夜空が真っ赤になるくらい大きな火ができた。
 子供達は、一軒一軒家を回って歩き、お餅だのアメだのお金だの貰う。
この火ぶりかまくらも一時期なくなったが、最近は、ぼつぼつ復活するところが出てきた。
 秋田は、沖縄と並んで貯蓄率が一番低い。お酒の消費量は日本一で、入ってきたお金は全部使うように頑張っている。冷害の影響を受けにくい豊かな所だからかも知れない。
 客が好きで見えれば今やっていることを全部放り出してでももてなす。
アスタマニアーナ明日は明日の風が吹く、秋田は日本のラテン民族である。
備えのなさ、わきの甘さ、今、日本の中で一番必要な気質だと思う。私は、自分のこの出身地に誇りを持っている。

 △ 自然との調和大切に

 最近、田舎暮らしに憧れる都会の人が増えてきて、突然田舎に来て農業を始めたりするケースが多くなった。田舎の人は親切で人がいい、そういう純朴さに幻惑されてくるが、当然ながら山村には山村の生活、地域なりの習わしがあってそういう知識がないことから戸惑い、結果的に排他的な土地柄などと思い始め、溝ができ、一年かそこらで撤退してしまう。



 これは、双方に原因があり、その最たるものが意識のギャップだと思う。
秋田で育ち東京で暮らす私には、意識のギャップのすごさは、身にしみて分かる。意識のギャップの背景は、生活文化の違い、実体験があるかないかの差だ。
 何年か前、知床半島の羅臼でヒグマが家に入り、冷蔵庫の戸をぶったたいて、中のものを食って逃げた。そのクマを地元の猟友会の人が射殺した。
それが、新聞に報じられ、猟友会と当事者の家に抗議の手紙が殺到した。
 それぞれ普段の生活の体験が背景にあって、片方は何で殺すんだ、片方はほっといたらまた入ってくる、今度は冷蔵庫だけじゃ済まないという恐怖があるわけで、この辺の差は、いくら議論しても埋まらない。
 30年位前に、北極圏で2年過ごした時、エスキモーは、交通手段として犬ぞりが欠かせなかった。その犬の餌になったのが白クマの肉だったのだが、当時、白クマの毛皮が高価だったので白人のハンターが白クマ狩り をやり激減していった。
 ワシントン条約ができ、白クマを保護すべきということで原住民だけは生活上必要だから取ってもいいが、外部に毛皮など売ってはいけないということになり、白クマを捕らなくなった。
 そこへ20年位前スノーモービルが地元に入り、犬ぞりを使う必要がなくなり、エスキモー達も白クマを捕らなくなった。今ものすごく増えてきて、本来海にいる白クマが丘に上がり、ゴミ箱をあっさたり、放牧されているトナカイを襲ったりしている。間引こうにも追いつかないという状況である。
 本州のツキノワグマの保護をやった場合に、ひとつ間違うと白クマみたいに熊だらけになるという人もいて、やり方によっては可能性がゼロとはいえないが、中国地方の島根県だったか鳥取県だったかがツキノワグマの保存に力を入れている例がある。熊が里に下りてこないように山の高い所に餌になるドングリとか何かを植え、生息圏を確保し、人里に下りてこないようなことを考えている。
 何故こんなことを言うかというと、私が前半に西木村のすでに失われた伝統的な行事だとか、文化などについて話したが、失われたものを全部取り戻そうたってそうはいかない、覚えている人さえいなくなってしまうのである。
 これから先山村で生活していくにあたって、どんなに生活と対立する関係にあっても、自然保護という問題からもう避けて通れない。何とか知恵の出しようで、みんなで考えて自然保護みたいなものと山村の活性化をジョイントさせなければいけない時期に入っている。

 △食糧の自給重要な課題

 山村に係る問題として、農業について見ると、稲作技術、農業技術が進歩して、昭和初期のような凶作はないだろうと思うが、現代史をテーマに仕事をしてきた者の立場からすれば、農業、就中米の完全自由化には大いに疑問を持っている。
 どんなに技術が進歩しても凶作の時もあり得るし、戦争その他の人為的な理由から穀物が入らなくなることもある。中国だって準輸入国になりつつあるし、タイだって危ない。輸出国であるアメリカと日本との関係が未来永劫今のままだという保証はない。
どこかの国で戦争が起こったりヨーロッパで飢饉状況になった場合、日本に回ってこなくなる可能性がある。食料というのは、安全保障のひとつの重要な手段だと思う。米の自給だけは、最低限守るべきだと思う。
 雪深い羽後地方の山村で生まれ育ち、少年時代の思い出とともに体験にもとづく示唆に富んだ講演は、450名を越える聴衆に大きな感銘を与えた。






前ページ/ 次ページ